佐賀?江戸の名薬③唐人膏(とうじんこう)
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◆唐人膏の伝來◆ ■松屋判助が文政(1818-1830)のはじめ、膏薬の製法の 秘方を長崎に在留していたオランダ人に受け、これを 「唐人膏」と名付け森田判助本店(現(xiàn)森田製薬株式會(huì)社) が製造販売した。 |
◆唐人膏の伝來◆ ■松屋判助が文政(1818-1830)のはじめ、膏薬の製法の 秘方を長崎に在留していたオランダ人に受け、これを 「唐人膏」と名付け森田判助本店(現(xiàn)森田製薬株式會(huì)社) が製造販売した。 |
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◆オランダ外科術(shù)と膏薬◆ ■オランダ膏薬について次のように述べられている。 鎖國下の**貿(mào)易ができた國はオランダで、長崎出島に 蘭館があった。この蘭館付醫(yī)師が教えた醫(yī)學(xué)は主に 外科術(shù)で、それに使う多くの膏薬であった。 ■なかでも、慶安2年(1649)來日したカスパルが伝えた 17種の膏薬が日本化されて後の世に影響を與えた。 また、オランダ醫(yī)師に學(xué)んだ通訳官の楢林?吉雄の両家 から醫(yī)者となった。その一人楢林栄久が考案し、 オランダ人に褒められた膏薬がある。 ■その膏薬は、佐賀の「唐人膏」と同じ成分からなっている。 |
◆佐賀藩と出島◆ ■佐賀藩は、江戸時(shí)代、幕府の命で、黒田藩と交代で 長崎港の警備に當(dāng)たっていた。 その影響で、 佐賀藩には、全國に先駆けた多くの西洋の技術(shù)が 導(dǎo)入されている。唐人膏の伝來もこうした 背景の中にあったものと思われる。 |
◆膏薬得意の隆盛◆ ■當(dāng)初は製薬の方法が十分でなく、苦心研究され、 數(shù)十年にしてようやく製法を完成して、 大いに世上の信用を博した。 これにより他藩への営業(yè)進(jìn)出の基礎(chǔ)を確立することができたという。 判助の2代目になり、「唐人膏」に何時(shí)しか「判助膏薬」と呼ばれ、 聲価大いにあがり、遠(yuǎn)近競って、購入した。大正までに販路は 九州、四國、中國一円及び?xùn)|北地方に及んだ。 大正時(shí)代には、延べ膏薬(萬金膏)と貝殻入りの唐人膏類の膏薬を 組み合わせた薬を?qū)熼Tの販売する配置売薬が起こり、 隆盛をなし、いわゆる「膏薬得意」を確保した。 |
◆ 薬 効 ◆ 用法は、溫めて和紙に延ばして痛むところに貼った。 ヒビ、アカギレには、焼け火箸で硬膏を溶かして、傷口にすり込んだ。 効能は、アカギレ、筋骨の痛み、肩腕のコリ、背の痛み、 腰痛み、打身、切り傷、ヒビ ◆ 成 分 ◆ 成分は、胡麻油、牛脂、松脂、蜜陀僧、鉛丹を加熱、混和して、 塊(硬膏)として、貝殻または竹の皮に包んだ。 ■戦後は、栄養(yǎng)の改善、機(jī)械化による農(nóng)業(yè)等における重労働の 軽減などで、ヒビ、アカギレ、腰の痛みが少なくなったことや優(yōu)れた 鎮(zhèn)痛剤が出現(xiàn)したことにより「唐人膏」は 昭和50時(shí)代で生産が終わった。 |